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一般的に韓国・朝鮮といえば、辛いというイメージがある。その思い込みは唐辛子のために真っ赤に染め上がったキムチのせいだろう。その味を知っている人は食欲をそそられるのだが、まだ食べたことがない人は見ただけでいかにも辛そうで、身を縮こまらせて、時には顔をしかめる人さえいる。一度食したらきっと病み付きになることは間違いないのに。
何人かの人に唐辛子はどこから来たかを尋ねてみると、ある人は中国からじゃないかという。「唐」の漢字からの連想らしいが、「唐」が付いているから全部中国とは限らない。「やっぱり本場の韓国でしょう」という人もいた。これは当たらずとも遠からずである。
しかし、唐辛子の原産地は中南米で、1492年コロンブスのアメリカ大陸「発見」を契機としてヨーロッパやアジアに伝えられた。日本にはいわゆる戦国時代にポルトガル人が豊後にもたらしたのが初めてということである。
しかし、江戸時代の日本では唐辛子は朝鮮から来たと信じられていた。それも秀吉の文禄の役(1592〜98年)でもたらされたというのである。貝原益軒の『大和本草』(1709年)には「昔は日本には無く、文禄年中秀吉公の朝鮮を討ち給ひし時、彼の地より種を取来たりてはじめて日本に植えたるが故にかうらい胡椒という。また西国にて南蛮胡椒と称す」とある。また『本朝世事談綺』や『物類呼称』にも秀吉が云々、とある。
つまり唐辛子は当時、胡椒の一種として文禄の役の時に朝鮮から来たので「高麗」の名を冠していたのである。
京都には益軒が生きていた頃から開業していたという古いのれんを誇る唐辛子の店が今もある。東山の清水寺の参詣道にあたる三年坂の「七味家本舗」がそれで、そこには益軒が記した高麗胡椒という名称が残っているかと思って訪ねてみたが、今ではその名は廃れて忘れられていた。
四国では「カラシ」、九州では「コショウ」
『和漢三才図絵』(1712年)では「俗言南蛮胡椒、今言唐辛子」とあるから、早くから唐辛子というのが定着し、現在では標準語として通っているが、各地ではいろいろな呼び方がある。関西、関東では「トウガラシ」と呼ぶが、四国ではただ「カラシ」というし、九州では「コショウ」というだけである。
鎖国以前にしばしばやって来た、いわゆる南蛮船がまず目指したのは九州であったし、朝鮮に最も近いのも九州なのに「ナンバン」も「高麗」の冠もなく、ただ「コショウ」というのは困ったものである。もっとも「胡」自体が「異国」を表しているけれども。
逆に九州ともっとも離れた東北、北海道地方で「ナンバン」と呼ぶそうである。それでは「高麗胡椒」という名称が全く使われなくなったかというと、そうでもない。沖縄出身の知人に尋ねると「コーレーグス」というのだそうである。それはまさに高麗胡椒に違いない。沖縄は琉球国といった時代から地理的にも政治的にも中国との関係が濃密な国だったから、中国から入ってきてもよさそうなのに「高麗」を冠しているのである。
また、江戸時代後期の農政学者・佐藤信淵は『草木六部耕種法』で「天文11(1542年)年にポルトガル人初めて豊後国に来航し、南瓜の種と共に国主大友宗麟に献ぜり」といっている。
一方、朝鮮では唐辛子のことがどのように記されているかといえば、文禄の役からそれほど時代の経っていない1613年に編纂された『芝峰類説』には「南蛮椒には大毒あり。始め倭国から来たので俗に倭芥子という」とある。
南蛮から日本→朝鮮。また朝鮮から日本へ
現在は普通コチュといい、漢字で書けば「苦椒」であるが、別の記録では「蕃椒」とも記し、「倭芥子」(ウゲジャ)といった時代、地方もあったらしい。これは文字通り日本から入って来た芥子ということになる。
朝鮮に唐辛子を伝えたのは、密接な関係にあった対馬ではなかったかと思い、対馬の記録を見ると「慶長10(1605)年、朝鮮より初めて蕃椒を移植す」とあって、対馬には朝鮮から入っているのである。
日本では朝鮮から、あるいは南蛮からといい、朝鮮では日本からという。いったいどうなっているのか、訳が分からなくなってしまう。
要するに、日本のある一部の地方に唐辛子をもたらしたのは南蛮人に違いなく、そこから朝鮮に伝わった。その朝鮮から『文禄の役』などを契機に、それまで伝来していない地方に伝わった、としか整理のつけようがないように思われる。
いずれにしても、同じ時期に伝来した唐辛子が、わずか川でしかないような海峡をはさんで、一方では漬け物が真っ赤に染め上がるほどに使われるのに対し、一方ではうどんや蕎麦におまじないのように、ほんの少しふりかけられる程度というのは、実に不思議なことに思える。
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