「アンニョンハセヨ」
夕暮れどき、どこからともなく挨拶が聞こえてくる。「赤坂亭」は、ハングル文字が氾濫する赤坂見附のたまち通 りを通り抜けたところにあった。
今年大流行のピンクを基調とした韓国家庭料理の店は、呉淑子さんが仕切っている。
まずは、自信をもってお奨めするという「スンドゥブ・チゲ(豆腐チゲ)」にスッカラ(匙)を伸ばす。赤辛い汁が瞬時に舌を麻痺させるようでいて、ふわーっと柔らかさが膨らむ。だしの旨味と豆の甘味、そして唐辛子の隠れた甘味が渾然となった美味しい汁である。
唐辛子の赤に染まらないようにしている「おぼろ豆腐」の下には、なめたけ、あさり、肉そぼろが潜んでいた。韓国産のぽってりした土鍋におさまった「スンドゥブ・チゲ」は、夏バテによし、風邪ひきによし、年中楽しめる激しくて、やさしいお汁である。
揚げ昆布のビビンパはオモニの味
「チリチリ」と、美味しそうな音が聞こえてきた。昆布の香ばしさが、鼻をくすぐる。
もやし、ぜんまい、にんじん、大根、「石焼ビビンバ」定番の具に加えて、「しいたけ」、「小松菜」は、来日してからの呉さんのアレンジである。さらに、呉さんのオモニ直伝である「揚げ昆布」がトッピングしてある。湯気でしなる前に、急いで揚げ昆布のパリパリ感を楽しみたい。
具とご飯の量が逆転したようなヘルシー・ビビンパには、コチュジャンは落とさない。
「せっかくのナムルの味が死んでしまいます。その代わり、白菜のキムチで巻きながら食べると美味しいですよ」
日本で完成した母娘合作のソウル式石焼ビビンパは、「スンドゥブ」とともに二大売れ筋である。ランチはほとんどがこの二品という。むべなるかな。
さて、韓国料理の楽しみは、たくさんのミッパン(おかず)にある。
「赤坂亭」でとりわけ私が気に入ったのは、「野蒜の和え物」である。
野蒜はしゃきっとした歯ごた えがあり、それでいてつんとす る臭いのきつさもない。わずか
に酸味を感じる唐辛子のドレッ シング(薬念)が野蒜の持ち味を引き立てている。韓国人にしか出せない味は、酒のつまみにもってこいである。野蒜はいつでも味わえるものではないだけに美味しさは一入、旬の滋味が心を満たしてくれる。
箸休めには、山芋の「ジョン(煎)」がよい。真ん中に貼りついたパセリが、白い山芋のアクセントとなっている。「チヂミ」は、一晩ねかせて野菜の旨味を生地の中へ移し込むという。最初はそのままタレにつけ、表面
のさくさく感と内側のもっちり感を味わう。次に呉さんのアドバイスにしたがって、キムチをのせてみた。なるほど、プラス1の味が出てくる。
豚足はソウル式のアミの塩辛で
呉さんの自信作はまだまだ続く。「豚足」は、炊き上げた後、骨をはずしてまとめてからスライスする。食の原点とはいえ、時には毛まで残っていることもある豚の足にかぶりつくことに、若い女性は抵抗を感じるかも知れない。ハムのようにスライスされた豚足は、しゃれた前菜となっている。
シナモンを利かせた呉さんちの豚足には、ソウル式にアミの塩辛をほんのちょっとつける。そしておなじみの青唐辛子、ニンニク、えごまの葉とサンチュで包んで頬張った。複合味覚が醸す深い味がする。好き好きだが、やはりえごまの葉の香りが、豚足の旨味を引き出してくれるように思う。
「焼叉」丼のようにきれいにスライスされた呉さんちの豚足を、丼物にしてみてはどうだろうか。もちろん、豪快に豚足がごろんとのっかった丼だって悪くない。
客のほとんどが若い女性というこの店は、ミッパン類もきっちりと本国の味を守っている。いずれも、白いご飯で食べたいと思わせるのは、とりもなおさず家庭料理として完成していることに他ならない。
パガヂ(瓢箪)を模したお玉で鉢からマッコルリを掬いながら、これらのミッパンの一つひとつを楽しんだ。韓国伝統の供し方がうれしい。
マッコルリはビール割りで
「マッコルリ」を良く知る人は、ビールや炭酸あるいは、ラムネなどで割って飲んだりもするようだ。輸送のことを考えて発酵を抑えている市販のマッコルリを、家庭で作るような味に近づけるためとか。そして、「真露」など韓国の焼酎は「とうもろこし茶」で割ればよいと呉さんが教えてくれた。さっぱりとして、ウーロン茶で割るのとはまた違った味が楽しめる。
近年、韓国は若い女性に大人気である。韓国を旅して、骨付きカルビばかりが韓国料理でないことを、また本場の味とともに韓国式の食べ方も知り始めた。
キムチのお替わりは自由と、けちけちしない韓国式がうれしい。ランチタイムでも、例外なくみなお替わりするという。もちろん、キムチも、「ムルキムチ」も、手作りの本物である。
あれこれと足しながら一品で何度も美味しい、「韓国料理、足し算の妙」を伝授してくれる呉さんから、自分の作る料理の一品一品に深い愛着をもっていることが伝わってくる。
いずれは、韓定食を展開したいと考えている呉さんにとって、「赤坂亭」は格好のデッサンの場になっているようだ。ベトナムでも料理店を仕切ってきた経験をもつ呉さんは、来日して十年になる。女性ならではの細やかな心配りが感じられる料理や応対に、若い女性がいつの間にか寛いでくるに違いない。それが家庭料理の原点でもある。
「赤坂亭」は、オモニの味を受け継ぐソウルっ子の店である。
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